ETV特集 日本と朝鮮半島2000年(2)
「“任邦日本府”の謎」

ナレーション:二千年の時を経て向き合ってきた日本と朝鮮半島。私たちはどのような関係を築いてきたのでしょうか。そしてどこへ歩もうとしているのでしょうか。(韓流スターに群がる女性の写真とペのアップ)古代朝鮮半島南部は任那と呼ばれ、日本が支配したと考えられてきました。しかし、最近韓国南部で発掘が相次ぎ、通説を覆す交流の実像が浮かび上がってきました。大量に埋葬された鉄の発見。(大量の鉄器と鉄?の鎧)そして次々と見つかった日本式の墓、前方後円墳。日韓両国で新たな研究が続いています。古代日本と朝鮮半島南部の知られざる交流に迫ります。

第二回
  「“任邦日本府”の謎」

〜スタジオから キャスター石澤典夫 リポーター比留間亮司(福岡放送局アナウンサー)

石澤:こんばんは。我々NHKでは教育テレビ開局50年を記念して、日本と朝鮮半島2000年の交流の歴史を古代から明治はじめまで10回を通してシリーズでお伝えしています。シリーズ二回目の今日は古代の日本と朝鮮半島南部の交流に迫ります。取材にあたりましたアナウンサーです。よろしく。さて、今日見ていく時代は?

比留間:はい、日本史で言う古墳時代なんですね。どのような時代かこちらの年表で振り返ってみたいと思いますが、いまから約1800年前(卑弥呼の絵)卑弥呼が現れます。その後全国各地に巨大な古墳が作られていく時代(仁徳天皇陵)これが古墳時代なんですが、この間中国の歴史書の中から(空白の4世紀)古代日本、倭の記述が消える、空白の四世紀と呼ばれているそうなんです。

石澤:あの、空白の4世紀と言いますね、とてもミステリアスな印象を持つんですが、実はこの時代の日本と朝鮮半島の関係を見極めることはとても重大な事なんですよね。

比留間:そうですね。その頃朝鮮半島南部というのは日本書紀で任那と言われていました。私も中学校の頃歴史の教科書でですね、この任那を通して日本と朝鮮半島が交流をしたと習いました。でも、最近の教科書ではその記述が大きく変わってきているんです。なぜそのように変わってきたのか。まずは日本でも放送しましたあの韓流ドラマから見ていきましょう。

(韓国ドラマ「太王四神記」の映像)

ナレーション:韓国ドラマ「太王四神記」。主人公は古代朝鮮半島の北に君臨した王「広開土王」です。

〜ドラマの台詞(字幕)
「チュシンの王と信じて、だからお前を守る必要があった」

ナレーション:4世紀から5世紀にかけて領土を拡大した高句麗の王 広開土王の姿が描かれています。

〜ドラマの台詞(字幕)
「新羅は?」
「加耶が百済を支援しないように加耶に兵力を移動させるでしょう」
「では始めましょう。第一陣は陸路で百済へ向かい、都の手前で百済軍をけん制すること。」

ナレーション:広開土王は南の百済や加耶と抗争を繰り返します。王の名は領土を広く開いたという意味から付けられました。当時中国では統一王朝が分裂、これを期に高句麗は中国がおいた楽浪郡を攻め滅ぼします。さらに新羅と連携し南の百済と加耶を攻撃しました。
中国東北部の町・集安。北朝鮮と国境を接するこの地にかつて広開土王が都をおきました。当時の城壁の跡や巨大な石積みの古墳など高句麗時代の遺跡が今も数多く残っています。2004年、世界遺産に登録されました。この町の一角に広開土王の功績を称えた碑があります。広開土王碑、高さ6mを超える巨大な石に1500を超える文字が刻まれています。そこに古代の日本をあらわす「倭」の文字がいくつもあらわれます。「倭が朝鮮半島の中西部まで侵入した(碑の拓本『倭 侵入』の文字)」「新羅の城内に満ち溢れた倭を(同じく『新羅城倭満』)高句麗軍が攻撃に向かうと倭賊が退いた(同『倭賊退』)」

〜日本列島と半島の図 近畿地方が赤く塗られ『ヤマト政権』と記載

ナレーション:その頃日本列島では近畿地方を中心にヤマト政権が勢力を拡大していました。

〜下関あたりから対馬を通って加耶へ矢印

ナレーション:ヤマト政権は大陸や朝鮮半島とも交流をしていました。広開土王碑の存在が日本に伝えられたのは明治時代の事です。大陸調査に訪れていた日本の参謀本部の軍人が文字の写しを持ち帰りました。碑文の内容は日本書紀の記述を裏付ける物として当時の日本の学界で注目されました。8世紀に書かれた日本書記です。天皇の后が朝鮮半島に将軍を送り南部の七国を平定したと書かれています。(日本書紀より『平定』『七国』の文字)そのおよそ200年後任那日本府の記述があらわれます。(『任那日本府』)こうした日本書紀の記述が広開土王碑文の倭と重なっていきます。
明治時代中期の小学校の教科書です。(『第四章 神功皇后。』)朝鮮半島南部には任那の地名が見え、本文には「わが国に従える任那」とあります。こうして古代の日本が朝鮮半島の南部、任那を支配したという考え方が定着し、戦後まで残ったのです。
日本書紀に記された任那、それは現在の朝鮮半島東南部ナクトン江の下流域にあたると言われています。

比留間:ナクトン江にやってきました。いやー広い川でしねぇ。かつてここを多くの人達が行きかったんでしょうね。

ナレーション:地元の人達は府クルからこの地を加耶とよんで来ました。(路線バスの後ろに朝鮮語でカヤと書いてある)今も町のいたるところに加耶の文字が多く見られます。

比留間:店の名前が加耶ですね。チョソニダ(すいません)(以下朝鮮語でのやりとり)ここに加耶と書いてありますがどうしてですか「このあたり一帯は加耶の王宮の一部だったのです。歴史が感じられますからね(店員)」

ナレーション:この地域では1970年代以降発掘調査が進みました。特に注目されたのがテソンドン古墳、加耶の中心勢力 金官加耶国の王墓の発見です。

比留間:(以下朝鮮語でのやりとり)この山全体が古墳ですか?「はいそうです。この丘陵全体としたの平地部分に加耶時代の墓が集中しています。この墓が発掘される前は金官加耶がこの地にあったのか疑問視する見方が多かったのです。金官加耶の実体を否定する声が多かったのですが、このテソンドン古墳群が発見されてそうした見方は一蹴されました」(以上キメ市文化財課ソン・ウォンヨンさん)

ナレーション:古墳からは銅器や装飾品など様々な副葬品が発見されました。(発掘品の銅器、装飾品、勾玉、銅鏡 等)加耶に独立した勢力が存在したことが確認されたのです。日本との関係をうかがわせる物も見つかりました。(卍の形をした銅器(巴形銅器)が二個運ばれてくる)

比留間:不思議な形してますけど?「古代の盾の飾りです。このような遺物は主に日本で出土するものなので、日本で作られて朝鮮半島に入ってきたと思います(国立キメ博物館ユン・オンシクさん)」

ナレーション:防御用の盾に飾ったとされる日本特有の装飾具、巴形銅器です。4世紀から5世紀にかけ、日本では大阪平野の南部に巨大な古墳が次々と現れました。こうした古墳からも同じ巴形銅器が見つかっています。当時のヤマト政権が同盟の証として連合する勢力に配ったものだと考えられています。ヤマト政権と金官加耶が親密な関係にあったことを伺わせます(テソンドン古墳と津堂城山古墳から出土した巴形銅器を並べて表示)
その一方で金官加耶から倭へ送られていたものも、テソンドン遺跡から多く見つかりました。

比留間:(以下朝鮮語でのやりとり)鉄器が多いですね「鉄器が多い理由は、この頃から富の集中、鉄器の集中が始まり国家が出現したことによると推測できます(大量の鉄てい(金ヘン廷)?と、小さな釘?楔?と、棒状で先端に丸い穴(持ち手?)らしきもの。他に壷が沢山)様々な規格化された鉄製品を作り分配しました。その主な輸出地域が日本でした。4世紀前半以降日本と密接な関係になっていきます。」

ナレーション:農具や工具など様々な鉄製品が見つかっています(斧や鋤などの出土品)豊富な鉄は武具にもなりました(鉄製の鎧)金官加耶は鉄製の鎧や兜で身を固めながら北の高句麗と対抗しました。
加耶地域が金官加耶を中心に独立した文化圏を築き、倭と密接に交流していた事がわかってきたのです。
朝鮮半島に現れた倭の存在をどのように見るのか。いま日韓双方で新たな議論をよんでいます。
大阪大学大学院の教授、福永伸哉さんは、この時期大阪南部の古墳から鉄製品が大量に出土することに注目しています。「当時日本列島で鉄を精錬して、こうした鉄のメタルを作る技術はありませんので、こういうものは大陸から手に入れてこなければいけないわけですね。で、こうした鉄の延べ板である鉄てい(金ヘン廷)というのは最近朝鮮半島南部から最近沢山よく見つかるようになってきていますので(ここでナレーションが被る)おそらく朝鮮半島から(これ以上聞き取れず)」

ナレーション:福永さんは倭が鉄を得るために金官加耶へ軍事支援を行い、高句麗と戦ったと考えています。

福永:「日本列島は当時朝鮮半島南部の加耶という地域の勢力と連携して鉄の素材を手に入れている訳です。そこが高句麗の手に落ちるという事は具合が悪いわけですね。そういう事から考えると、やはり高句麗と一戦をまみえた事があったとすれば、それはかなり畿内にかなり本拠を置くような政治勢力が結集した倭人達であったと考えるのがいいんじゃないでしょうかね」

ナレーション:一方プサン大学教授のシン・ギョンチョルさんは金官加耶が兵力の不足を補うために倭に支援を求めたと見ます。その時加耶軍に編入された倭人の存在が碑文に記されたと考えています。

シン・ギョンチョル:「古くから親密な加耶からの要請なので倭が来たのは間違いないと思います。しかし、当時の倭には加耶のような重装備の軍隊はなかったので、同盟のような対等な関係での支援だったとは思えません。倭人は伽耶の鎧と兜で武装したので現代の感覚でいう救援軍とは言えません。加耶軍の中に倭の傭兵が多く加わったので広開土王碑文に「倭」として現れたのでしょう」

ナレーション:加耶との交流とは違う視点から見るみかたもあります。広開土王碑文を研究している九州大学大学院教授の濱田耕策さんは倭と百済との関係に着目します。

濱田:「百済がですね、誓いをやぶって倭と和通したと」(・・・論事九年巳亥百済違誓与倭和通・・・)

ナレーション:碑文には高句麗が南を攻める理由の一つに百済が倭と通じている事をあげています。倭は古くから朝鮮半島を経て中国へ交易していました(大阪から瀬戸内を通り、大宰府、加耶、百済、楽浪郡を経て黄海をわたり大陸に向かう矢印)のろルート上にあったのが、加耶と百済でした。高句麗の南下が激しさを増すと百済はそれに対抗するため倭との関係を重視していきます。
その事を物語るものが奈良県石上神宮(いそのかみじんぐう)に納められています。百済が倭へ送ったとされる太刀、七支刀です。金で刻まれた銘には369年この刀は百済王が倭王の為に作らせたと記されています。七支刀は百済が中国南朝(宋)から得たものを倭の為に複製して贈ったものだと考えられています。中国南朝(宋)から百済、加耶、そして倭へと通じる連帯意識があったのではないかと、浜田さんは考えます。

濱田:「百済・加耶が安定していればこそ倭はそこを通してやがて中国王朝に通うことが出来ますからね、生存協同体というか、百済が欠けても倭は大変だし、加耶が欠けても倭は大変だし、そこにまあ必然的に倭が百済が危ないとすれば出かける。何かその両者が結び合うような、そういうものがこう200年300年の交流の中で出来ていると、そう見てるんですね。そこが古代の日朝関係ではないかとなあと見ますけどね」

ナレーション:広開土王との戦いの後、日本では鉄製の武具が大量に埋葬されていきます。(黒姫山古墳出土・鉄製武具)ヤマト政権が鉄を中心とする武力で、地方の豪族を服属させていったと考えられています。鉄製の武具を埋葬する古墳は近畿地方から全国各地へ急速に広まって行きました(鉄製よろい(帯金式)の分布図)巨大化していく古墳。朝鮮半島から得た鉄によって、ヤマト政権は大王を中心に権力を拡大していったのです。

〜スタジオへ  キャスター石澤典夫 リポーター比留間亮司(福岡放送局アナウンサー)
         東洋大学教授 森公章  コリョ大学教授 キム・ヒョング

比留間:広開土王碑文について現れた倭についてですね様々な説をみてきましたが、ここで任那が教科書でどう書かれてきたのか比べていきたいと思います。
まずは1960年代の日本の中学の教科書です。朝鮮半島南部に任那と書かれています(1960年代中学校教科書 4世紀の記述 出版社は無記名)その範囲なんですが、朝鮮半島南部のかなり広い範囲に及んでいます。本文ですが「任那とよばれた地には、大和朝廷が役所(日本府)をおいて、支配していた。」と書かれています。これが2009年の教科書だとこの様になります。(2009年中学校教科書4世紀の記述 出版社は無記名)朝鮮半島南部の加耶となっています。で、任那は括弧書きになっています。本文もですね「加耶地方は小さな国に分かれていた。」となっています。では韓国の教科書ではどうなんでしょうか。(韓国 2008年中学校教科書 4世紀の記述)こちらです。同じように「加耶」と書いてあります。だた、その範囲なんですが先ほどの日本の教科書に比べると随分小さくなっています。そして、本文もですね「高句麗が倭軍と戦う新羅を助けるため・・・・加耶を攻撃することになり、金官加耶は大きな打撃を受け、・・・」任那が加耶となり、そして日本との関係に関する記述も随分大きく変わってきています。

石澤:では今日のゲストを御紹介いたしましょう。日本古代史が御専門のお二方にお越し頂きました。まず東洋大学教授 森公章さんです。古代の日本と朝鮮半島交流の歴史について研究をされています。そして、もう御一方です、韓国コリョ(高麗)大学教授 キム・ヒョングさんです。古代の日本と朝鮮半島の関係を研究をなさっています。
さて、森さん。私なども「任那」で教えられた世代なんですけど、まぁその表記のしかた、或いは括弧書きになったりですね、随分と表現の仕方が違ってきているのですが、この変化はどのようにとらえたらよいのでしょうか。

森:これには二つ段階があると思うんですが、一つは1970年代に日本書紀の文献資判、文献批判、資料批判ですねこれが非常に進んだという事があります。その後韓国の南部でテサンドン古墳の様な考古学の発掘が相次ぎ、1980年代に韓国、また日本でもですね加耶史という物の研究がやはり非常に進みまして、えー加耶の歴史ですね、その中でやはり加耶というものが独自の文化なり政事組織を持っていて、それぞれ王国がありですね、加耶諸国という物が、この地域を考える実態ではないかと、そういう研究結果がだされたという事が最も大きいのではないかと思います。

石澤:日本書紀の資料研究ですか、この辺の研究が大分進んでると、これが大きいという事になるのでしょうか。

キム:私も二つ理由があると思います。日本書紀に関する研究が進んだ事で日本が古代韓半島を支配したいう説はもう無くなりました。二つ目は考古学的な発見です。それによって加耶が独自の勢力をもっていた事が認められました。二つの理由で加耶という表現になったと思います。

石澤:そしてあの森さん、広開土王の碑文、あるいは日本書紀の記述に当時の日本と朝鮮半島南部との関係が出てくるんですけども、当時の交流の実態というのはどんな風に考えたら良いのでしょうか。

森:5世紀までですね倭国日本では鉄を独自に作ることは出来なかったんですね、やはり大和王権のですね鉄を求めて加耶、特に金官加耶の地域に進出して行ったのではないかと思います。

石澤:そういった物を倭の王権としては必要として取り込んできたと。

森:はいそうですね、古代にあってはやはり鉄を獲得して鉄を日本列島の中に分配するという、そういうことを通じて日本全体に対して大きな影響力を持つことが出来ると。それによってヤマト政権というものが日本列島の様々な勢力をある程度とりまとめが出来ると。その為にも鉄をですね独占的に輸入していく、そういう事が必要だったと思います。

石澤:キムさんはこの当時の倭と朝鮮半島との関わりですね、これはどんなもんだったと思われますでしょうか。

キム:その事が広開土王碑文に表れています。碑文は397年に百済が倭を引き込んだとしています。では、何をもって引き込んだのか、日本書紀によれば366年、ヤマト政権が百済に初めて使者を送りました。百済はその使者に鉄てい(鉄の延べ板)40個、五色の絹で作られた高級な織物等を与え、百済にはこのような物が沢山あるのだからこれからも交流をしたいとしています。つまり、鉄を中心とした先進文物を倭に与え、高句麗との戦いに倭を引き込んだのではないかと思います。

石澤:むしろその百済、朝鮮半島の中での百済が非常に倭と強いつながりを求めて出てきていた時代だったということですか。

キム:その様に私は思っています。広開土王碑文の段階になると日本と韓半島の政権レベルの関係では、百済との関係が中心であったと言えます。日本書紀によれば369年にヤマト政権が加耶地域を平定し百済も服属させたとしています。しかしその記述をよく検討してみると逆に加耶を平定したのは百済ではないかと思います。こう考えると倭と百済の間には直接交渉できるルートが出来たと言えます。百済の最大の敵は高句麗でした。記録によれば百済は364年に加耶と関係を結び、372年には中国南朝とも関係を結んでいます。これはすべて高句麗と戦う為に背後を安定させる必要があったからです。中でも特に倭はいろいろな面で重要であった為、人的交流を深めていったということが出来ます。

石澤:森さんは、この百済を介した交流についてはどんな風なお考えをお持ちでしょうか。

森:その4世紀の末からずっと百済とは非常に濃密な関係であったという風に考えられてきましたけれども、倭という物は百済の非常に多彩な国際環境の中のまあ一つのファクターであると、そういうような視点でむしろ倭と百済の関係を見ていった方がいいのではないかと。やはり百済に対する倭の態度というものも、その時々に応じてスムースにいく時もあるし、そうではない時もあるという関係ですね。そして百済と日本の関係、何を百済に求めたかという点について申しますと、日本書紀には百済からですね王仁(わに)という人がきて千字文という漢字を勉強するその基本の書籍を伝えたと、日本ではやはりその漢文をつくる能力ですね所謂文筆能力、或いは5世紀台に進む官僚組織ですね、こういうものは非常に百済を手本にしておりまして所謂国をつくるマニュアルと申しますかソフトの面、或いは6世紀台になりますと儒教とか仏教のようなより精神的に高度な物をむしろ百済に求めたのではないかと思います。

石澤:伝統的な交流関係はずっとあったんでしょうけれども、その上で例えば政治的な関係で言うと、ある種まあ是々非々と言いましょうか、その時々に応じた柔軟な動きがあったという事ですか。

森:そうですね。5世紀やはり倭も独自に中国南朝と通交しようとしますし、その時期は比較的百済と疎遠になったというですね、そうのような時期もあります。ですからやはり倭は倭なりに比較的ドライな関係というか、そしてまた百済は百済でまた非常に多彩な国際関係の中でどのような有利な選択をするかと、それがやはり5世紀或いは次の6世紀前半の国際関係を考える一つの視点だと思います。

石澤:さあそれでは、続いて次のテーマに参りましょう。こちらの年表をごらん頂きましょうか。広開土王碑の時代ですね、鉄を巡る交流を経て倭の大王は巨大古墳を築いていきました。その後6世紀になると仏教が朝鮮半島を経て日本へ伝来するなどさらにこの交流が深まっていく訳です。その直前の時代の関係について新たな発掘が続いています。

ナレーション:5世紀以降、日本列島各地では多くの古墳が築かれました。その特徴は手前が四角後ろが円形の所謂「前方後円墳」。日本独特の形だといわれてきました。しかし近年韓国でも同じ前方後円墳が見つかり、議論をよんでいます。
(韓国KBSニュース映像 1991年7月)「日本固有の古墳として知られる前方後円型の古墳が、韓国で初めてチョルラ南道シンドクで発見されました。韓日古代史の研究において重要な糸口になると思われます。」
1991年韓国南西部のチョルラ南道で木々に埋もれていた前方後円墳が発見され、以来この地域で次々と確認されていきました。古代史上の大きな発見として日韓の学会へ新たな疑問を投げかけています。朝鮮半島南西部を流れるヨンサンガン。前方後円墳はこの流域に多く見つかっています。これまで発見されたのは13基。全長30mから大きいものは70mを越すものまであります。いったい誰が埋葬されているのか。それは日本と朝鮮半島のどのような関係を物語るものなのでしょうか。
その一つ、シンドク古墳を訪ねました。

比留間:ああ、これがその前方後円墳ですね。こっちから見た感じだとこう丘の様な感じに見えますが、ちょっと近づいてみますと。こっからみると本当に前方後円墳といった感じが良くわかりますね。しかしこういった田園風景のなかにこういった物があるというのは非常に不思議な感じですね。まさにこの辺りが円のところから、そして四角い風に少しこう広がりながら。

ナレーション:全長51m。シンドク古墳は6世紀半ばに作られたと考えられています。見つかったのは横穴式の石室です。石積みの石室はベンガラと呼ばれる赤い顔料で塗られていました。また土器や鉄製品、ガラス球や首飾りなど装飾品も見つかりました(KBSニュース映像1991年土器・鉄器・馬具(ハミ?)・勾玉 等)これらの副葬品は現在も調査中で報告書がまとまっていないとの理由で今回撮影は許可されませんでした。こうした前方後円墳は5世紀後半から6世紀前半にかけて、短期間に築造されています。
その頃ヨンサンガン流域は在地の豪族が強く百済とは違う文化を持つ地域でした。一方百済は高句麗の南下によって都のハンソンを奪われます。百済はウンジン(熊津)に都を移します。そして失った領土の変わりに求めた場所がヨンサンガン流域だったのです。
チュンチョン南道コンジュ、南へ逃れた百済はここに新たな都ウンジンを築きました。ウンジンで王位に付いた武寧王。高句麗の圧迫で弱まった百済の勢力を回復を目指していました。町の一角に百済の王族が埋葬された墓があります。その中心にあるのが武寧王陵です。墓には金と銅で作られた豪華な装飾具が数多く副葬されていました。武寧王がヨンサンガン流域を支配しようとしていた頃、前方後円墳があらわれたのです。前方後円墳が作られたのは百済の支配が及ぶ前なのか、それとも後なのか。埋葬者を巡って大きく四つの見解に分かれています。

 第一説 百済が在地の豪族に造らせた

ナレーション:百済がヨンサンガン流域を支配した後に在地の豪族に造らせたとする見方があります。チュンナム大学副教授のウ・ジェビョンさんです。ウさんは武寧王の墓にそのヒントがあると言います。その内部が復元されています。

比留間:いや随分これ精密ですね。これ一枚一枚瓦が入ってるんですね。うわー。これはすごい模様になってますね。すごいですね。「このレンガの製造記述は中国南朝にあったものなので、中国南朝の指導で造られたと思います。」

ナレーション:アーチ型の石室はセン(土ヘン專)とよばれるレンガが敷き詰められています。こうした墓は中国南朝によく見られセン(土ヘン專)室墓と呼ばれています。ウ・ジェビョンさんは武寧王が外国の墓の様式を取り入れた点に注目します。

ウ:「この墓を作った武寧王は百済の都だったハンソン(漢城) 今のソウルが高句麗に攻め落とされるのを見たと思います。それで高句麗の侵入を防ぐために中国南朝の力が必要だったのです。ここでの葬式と中国南朝様式の墓を見た高句麗の人々は百済を脅威に感じたでしょう」

ナレーション:さらにウさんが注目するのは武寧王が納められていた木製の棺です。日本にしか自生しない高野槙と呼ばれる木材が使用されていました。日本書紀によれば百済の王族が倭へ向かう途中筑紫のかからじま(各羅嶋)で産まれた子がしまぎみ(嶋君)と名づけられます。それが後の武寧王だというのです。武寧王は倭と深い関わりを持つ王だったのです。武寧王は中国南朝と倭との同盟関係を強化していました。それによって高句麗を牽制し、ヨンサンガン流域に勢力の拡大を図りました。弔問に訪れた高句麗の使節に対し、背後に倭がいる事を訴えようとしたものではないかと考えています。

ウ:「前方後円墳に埋葬された百済の地方首長の葬式に参列した使節は、倭と百済 中国南朝と武寧王の関係を目の当たりにして帰国したと思います。それが高句麗にも伝わり百済が危機を乗り越えるのに大きな役割を果たしました。こうした墓は百済が危機を乗り越えるために一時的に採用した百済の地方首長の古墳だと私は考えます。」


 第2説 ヨンサンガン流域の在地豪族が造った

ナレーション:ヨンサンガン流域の豪族が百済に対抗するために造ったという見方があります。チョルラ南道のシンチョンリ(新村里)古墳群。前方後円墳が造られた頃の有力豪族の墓です。その埋葬法は百済とは全く違う甕棺(かめかん)でした。この地の豪族が百済から独立した勢力圏を築いていた事を伺わせます。この地域特有の土器です。表面に鳥の足の文様が施され鳥足文土器とよばれています。同じ鳥足文土器が日本の北部九州の古墳からも見つかっています。鳥足文土器が副葬されていた福岡市にある梅林古墳です。宮崎大学教授の柳沢一男さんは北部九州とヨンサンガン流域の密接な関係に着目しています。

柳沢:ここの近くではですね、朝鮮半島系の遺物や所謂オンドルがですね設置された住居の跡、あるいは製鉄ですね鉄器を作る方の製鉄ですけども、そういった遺物がですね沢山見つかった集落があります。古墳近くの集落からは朝鮮半島特有の床暖房、オンドルの遺構が数多く見つかっています。柳沢さんはヨンサンガン流域の在地豪族が北部九州との交流のなかで前方後円墳の様式を取り入れたのではないかと考えます。

柳沢:「ヨンサンガン流域というのは甕棺の墓制に象徴される伝統的な勢力というのがあちらこちらに居るわけですね。そうしますと従来の権益を守るために彼らは何らかの対抗しなくちゃならない。そのときにですね、その前段階から交流をもっていた九州北部の勢力と結ぶ事によってですね、百済からの圧力を牽制したのではないか。そういったことをビジュアルに示すために倭型の前方後円墳を採用した。そういった事だと思いますね」

 第3説 ヨンサンガン流域に移住した倭人が造った

ナレーション:倭人がヨンサンガン流域に移り住み、そこで前方後円墳を造ったとする見方があります。「あのこれがですね番塚古墳なんですね。番塚古墳の後縁部分です(苅田町教育委員会 長嶺正秀さん)」北部九州の前方後円墳、番塚古墳です。ここにも鳥足文土器が副葬されていました。「ここが入り口の部分になりますね。頭を気をつけて入ってください。」この古墳の石室には朝鮮半島の前方後円墳と多くの共通点があります。

比留間:ここが石室の中ですね「そうですね。これが天井石になります」

ナレーション:下に大きな腰石をひき割石を積み上げています。韓国にある前方後円墳シンドク古墳でも見られる構造です。「天井石を乗せていますね。この有り様というのがそのような形ですね。それからもう一つはここの一番下の框石(かまちいし)こいつもそういう形ですね。朝鮮半島の直接繋がりをあらわす形ですね。」これは朝鮮半島の?「栄山江(えいざんこう=ヨンサンガン)あたりの古墳との類似性を大変よく示すものだと考えています。」入り口にも共通点があります。シンドク古墳にも天井と敷居に大きな石が使われています。「あのここら辺りに非常によく残っているんですが、これ赤いですね。これはベンガラなんですね。朱を塗っているんです。ここ少し赤いでしょ。ですから石室の中は元々真っ赤だったんだろうと思うんです。」さらに壁にはベンガラでつくられた赤い顔料の跡が残っていました。この赤い顔料はシンドク古墳でも確認されています。「そうした構造が北部九州の、たとえば番塚の天井の石ですね・・・」徳島大学教授の東潮さんは、こうした石室の共通性から北部九州の倭人が前方後円墳を造ったと見ています。東さんによれば、北部九州の人々はヨンサンガン流域と活発に行き来し、この地に住み着く人も居たといいます。定住した倭人達が前方後円墳を築いたのではないかと考えます。
日本書紀によれば512年、任那のうちの四県を倭が百済に譲り与えたという記事があります(賜任那四県)東さんはこの任那四県とは今のヨンサンガン流域にあたるのではないかとみています。

東:「倭が与えたというんです。与えたという事は百済の支配勢力が及んだという現象の裏返しなんですね。日本書紀はそう書くわけです。元々自分の領土だと主張してるわけですから。割と早いですよあれ。その中で全部こういう風に造るという事があったわけですね。造り得たわけです。そうすると栄山江の流域というのは倭国内と連動してるから、その倭国の政権の影響下にあったのではというような考え方も出てくるかも知れませんが、ただその以前にかなりの倭人が集中移住をしたりというような社会が作られていたわけで、倭人の選択としてですね、その時期に前方後円墳を造ったという風に考えていますけれど。」

 第4説 百済に協力した倭人が造った

ナレーション:百済に協力した倭人が造ったと考える人がいます。キョンブク大学教授のパク・チョンスさんは百済の南方攻略に連動して倭人が造ったものだと言います。パクさんが注目するのは前方後円墳が造られた場所です。前方後円墳は在地勢力が少ない地域に造られています。シンチョンリ古墳など在地の豪族を包囲する形になっています。百済が倭人を派遣して、南方攻略に当たらせた事を示しているというのです。

パク:「(百済は)チョルラ道地域と関係は持っていましたが直接治めてはいませんでした。この地域を征服するには軍事力が必要でした。当時百済と密接な関係にあった倭の軍事力に頼るしかなかったと思います。在地豪族をけん制しながら、豪族が支配していない所へ倭人を派遣して治めたと思います。」

ナレーション:さらにパクさんが注目するのは朝鮮半島最南端に造られた前方後円墳(ジャンゴサン古墳)です。倭人の役割は在地豪族のけん制だけではありませんでした。この前方後円墳は海の近くに造られています。その付近から、この地に派遣された倭人の役割を伺わせる墓が見つかっています。

パク:「ここで日本の甲冑と太刀が出土しました。こうした石棺は福岡や大分に多く見られます。これは福岡地域に多く見られるものです。」

ナレーション:この墓から見つかった鉄剣と鎧の一部です。パクさんは鉄剣の形から、倭で作られた可能性が高いとみています。

パク:「倭系の古墳がこの地域に現れる理由は、ここが南海と西海をつなぐ海上交通の要衝だからです。今は静かな海ですが、古代には活発な交易路でした。倭人を利用した防衛と地域統制という百済の意図が、日本の文物がここで出土する理由だと思います。」

ナレーション:日本書紀によれば、日本に滞在していた百済の王子を本国へ送迎するため筑紫の軍士500人が護衛したと記されています。(筑紫国軍士五百人)
百済と北部九州との深い繋がり、それを物語る古墳があります。熊本県北部の江田船山古墳(えたふなやまこふん)5世紀から6世紀にかけて造られました。古墳に副葬されていた鉄の刀です。刀の背の部分には銀の文字が刻まれています。ワカタケル大王、当時の雄略天皇の名です。この地の豪族がヤマト政権で重要な役割を果たしていたことを物語ります。その一方、同じ古墳から百済製と考えられる金と銅で作られた冠がみつかりました。さらに、金製の耳飾も副葬されていました。こうした装飾品は武寧王の墓の物と類似しています。百済との密接な関係を伺わせます。

パク:「九州地域の豪族は倭王だけでなく百済王とも関係を持っていたと思います。倭人が百済に多く居た理由は中国南朝に近い朝鮮半島の西にあり早くから南朝に使節を派遣して、中国の文物を受け入れていたからです。百済は中国南朝の文物を倭に、倭は軍事力を百済に提供したと思います。いわば持ちつ持たれつの関係なのです。」

ナレーション:朝鮮半島南西部に見つかった前方後円墳。その交流の実像を巡って日韓双方で様々な研究が続けられています。


〜スタジオへ  キャスター石澤典夫  東洋大学教授 森公章  コリョ大学教授 キム・ヒョング

石澤:さあこの墓はいったい誰が作り誰が埋葬されているのか。森さんはどんな風にお考えですか。

森:そうですね、現在出されている説ではですね私としては在地首長説、或いは在地化しつつある倭人という説にすこし魅力を感じておりまして、それは前方後円墳ですね、大体30mから70m位の大きさだということなんですね、日本で倭国で前方後円墳はヤマト王権の大王というものを頂点としてピラミッド型に大きさというものもその規制があるのではないか、つまりヤマト王権の大王は大きな古墳をつくる事が出来、地方の有力首長といいますか有力豪族はそれよりも少し小さい、そうですねもっと勢力の弱い豪族はもっと小さいとか、或いは前方後円墳そのものも造る事ができなくて他の形のものをつくると。そういう中で百済の武寧王陵は大体20mくらいの墳ですから百済王のお墓よりもですねもっと大きな古墳を作るということは、百済のコントロールの中にあったのかどうか。そういう点が少し問題になると思います。

石澤:キムさんはこの問題についてどのようにお考えになりますか。

キム:日本書紀によれば6世紀始めから出てきますが倭系の人が百済に渡って官僚となり、地方長官として活躍しています。穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)という人がその地域の地方長官であったと記されています。こうした点から倭系の人で百済にきて地方長官として働いていた人達と関連がある墓ではないかと思います。私はヨンサンガン流域の状況を検討してみる必要があると思います。『三国史記(朝鮮半島の歴史書)』によると470年代に今のチェジュ島、当時の耽羅(タンラ)国が百済に朝貢を行わなかった為、百済の王が今のクワンジュ(光州・チョルラ南道)まで軍隊を率いてやってきます、すると耽羅つまりチェジュ島が降伏し朝貢をしたという記録があります。少なくとも5世紀後半には今のヨンサンガン流域はもちろん、チェジュ島までも百済の影響下にあった事が文献上で見ることが出来ます。それでは、百済がすでに掌握した地域なのにも関わらず、何故倭系の墓があらわれているのか。それは、この地域が倭から百済に入る通り道にあたるからです。政治的な関係によってではなく、百済との交流が活発に行われる事によって自然に産まれたものだと考えられます。

石澤:この辺りがですね、任那四県にあたるのではないかという議論も昔からあるんですけども、この点についてはどんな風にお考えでしょうか。

キム:任那四県というのは基本的にはヤマト政権が韓半島南部を200年間支配した事を前提にする事で成り立つ話しです。少なくとも、中国の記録によれば5世紀後半にはすでにヨンサンガン流域は百済の影響下に入っています。ところが日本書紀の任那四県の記述は6世紀前半になってあらわれます。こうした点からもヨンサンガン流域が任那四県とは一致しないという事ができます。

石澤:このヨンサンガン流域の前方後円墳の存在、これをですね当時のそのどのような交流の証と考えればいいのか、その点についてお話を進めて行こうと思うのですが、森さんはどういう風にお考えでしょうか。

森:そうですね、先ほどの広開土王碑文そこにはですね金官加耶国が広開土王の軍隊によって一時蹂躙されるという記事がありまして、その後テソンドン古墳の後、金官加耶国の中心部といいますか、政権が衰えるのではないかと、つまり本来倭・日本はですねその地域から鉄ですとか乾式土器・須恵器ですねそういったものを得ていたわけですけれども、5世紀になるとヨンサンガン流域から須恵器ですとか鉄を導入していたのではないかと、そこにヤマト王権の人も行くでしょうけれども、やはり北部九州ですとか或いは西日本のですね諸豪族といったものがその地域に鉄・須恵器、或いは先ほどキム先生のお話しにも出てきた高級織物ですね、そういった技術を求めてこの地域に行く。むしろクニとクニとの関係というよりは完全にはクニになっていない、ひとつのファジーな場としてこの地域があって、そこに百済・伽耶は様々な、そして倭の中でもヤマト王権だけではなくて様々な地方豪族からのアプローチがあると。そういう地域としてこの地域を考えていくのがいいのではないかと思います。

石澤:王権レベルとは違う交流がむしろあったんだと。

森:そうですね。朝鮮半島諸国に対してはそれぞれの地方豪族が実際にそれぞれの地域と様々な関係を結んで、そして鉄資源或いは先進文物を導入してそしてまたそれが逆にそれぞれの地域の地方豪族がヤマト王権に対して一定の独立性を保っている。その様な関係を築くことが出来ていたのが5世紀から6世紀の前半という時期ではないかと考えられています。

石澤:これについてはキムさんどうお考えでしょうか

キム:ヨンサンガン流域では技法は違っていますが前方後円墳や埴輪などの様式を取り入れています。それは、政権の次元ではない一般の様々な交流があったことをよく物語っています。百済に来て官職についた当時の倭系の人をみても、例えば科野(しなの)という氏族もいます。科野は日本の中央の朝廷には全く現れませんが百済にきて多くの官職についています。そう考えますと、ヤマト政権の次元ではなく色々なルートによる交流を良くあらわしているのがヨンサンガン流域の倭系の痕跡であると言えるでしょう。

石澤:さあそれでは続いてのテーマに参りましょう。こちらの年表をごらん頂きましょう。


ナレーション:韓国南西部に前方後円墳が現れたのが6世紀の前半です。その後日本書紀に任那日本府の記述があらわれます。続いてはこの時代の交流を見てみましょう。
大阪高槻市にある今城塚古墳。全長190m6世紀前半継体天皇の墓だと言われています。継体天皇と百済との交流を物語る鏡が残されています。人物画像鏡(和歌山・隅田八幡神社所蔵)鏡のふちに文字がならんでいます。オオド王とは即位前の継体天皇そしてシマは百済の武寧王をさします。武寧王が継体天皇に長寿を祈って贈ったとされています。日本書紀によれば527年(日本書紀・継体21年)継体天皇は6万の軍勢を朝鮮半島に送ろうとします。目的は任那の復興でした。(衆六萬欲往任那為復興)
その頃朝鮮半島南部では加耶が新羅に脅かされていました。新羅に奪われた加耶の一部を復興する、それが出兵の名目でした。しかし、計画は北部九州の勢力によって妨害されます。筑紫の君磐井による反乱です。(賊師磐井交戦於)磐井は筑紫平野を中心に勢力を誇っていました。福岡県八女市にある岩戸山古墳。磐井の墓とされています。全長135m。古墳の規模から磐井が継体天皇を脅かす力をもっていたと考えられています。墓の周囲には石人とよばれる石の像が並んでいました。兵士をあらわしているといわれています。磐井はこうした軍事力によって北部九州一円を支配したと考えられています。
磐井の巨大な権力はどのようにして築かれたのでしょうか。それを物語る古墳が福岡県の遠賀川の流域にあります。。磐井の同盟勢力の墓といわれる王塚古墳(福岡県桂川町)です。宮崎大学の柳沢一男さんはこの古墳から磐井の力を読み解いています。
その石室が復元されています。

比留間:随分これ鮮やかな色合いでなかなかこう、何色もありますね。

ナレーション:壁は四色の幾何学的な文様で覆われています。石室を守るように、入り口の柱に描かれた馬。朝鮮半島の騎馬文化を磐井が取り入れていたことを伺わせます。「これは夜の星座、星ですね。どうも夜の星座を描いているらしい。この謎は日本ではなく朝鮮半島の北部カンダヤスム陵の図文ではないか、その様に考えています。非常に広い日本列島各地の首長とですね、或いは朝鮮半島の南部、或いはひょっとしたら北部まで手を広げて外交関係を形成した。そういった磐井の力を背景にしてこのようなとてつもない古墳・壁画ですね、それを造ることが可能になったのではないか非常に独自のですね北部九州勢力の、独自のネットワークの中でこのようなものを造りあげたと、そういう風に考えていいと思います。」
日本書紀によれば、当時朝鮮半島の新羅が継体天皇の出兵を知り、磐井に賄賂を贈って妨げたとあります(新羅知是・・・貨賂干磐井)新羅を背後に控えた磐井と百済と繋がるヤマト王家。北部九州を戦場とした戦いは国際戦争の様相を呈します。結局磐井は破れました。ヤマトの軍は石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち墜すほど(風土記)磐井を徹底的に壊滅させたと記録されています。
北部九州を支配下にいれたヤマト王権は、改めて任那の復興をはかります。この頃加耶の中心勢力となっていた安羅に遣いを送りました。日本書紀には磐井が破れた翌年安羅に高堂(たかどの)が築かれ、再三会議が開かれたと記されています。(再三 言ヘン莫 謀)

韓国キョンサン南道ハマン。6世紀始め安羅加耶の都があった場所です。小高い丘に日本書紀に記されていた高堂の跡と考えられる遺跡が見つかっています。

比留間:柱が随分たくさんありますね。随分大きな建物だったんでしょうね。

ソン:「この建物跡は安羅高堂会議が開かれた場所と推定しています。当時安羅加耶が倭王に支援を要請します。倭国から勅使が派遣されました。会議の表向きの目的は加耶南部の復興でしたが、本当は安羅が新羅や百済の侵入をけん制するためでした。(ハマン博物館ソン・ヨンジンさん)」

ナレーション:しかし会議は不調に終わり、新羅は加耶諸国へ侵攻。金官加耶が滅ぼされました。(532年滅亡)さらに新羅は百済も脅かし始めました。

〜韓国ドラマ ソドンヨ の攻城シーンが流れる

ナレーション:韓国ドラマ「ソドンヨ」6世紀の百済が舞台です。百済の王「聖明王」は新羅に脅かされていた加耶諸国の復興を呼びかけ会議を召集します。日本書紀に記された所謂「任那復興会議(541年〜)」です。この時加耶からやってきた使者の中に任那日本府があらわれるのです。日本府の中には的臣(いくはのおみ)、吉備臣(きびのおみ)、河内直(かわちのあたい)などのヤマト王権に繋がる人物の名前が見られます。また、移邦斯(えなし)、麻都(まつ)といった現地在住の倭人とみられる人物も登場します。任那日本府の実態とはなにか。同じ頃の日本書紀にそれを解く手がかりとなる記述があります。「在安羅諸倭臣(ざいあらしょわしん)」安羅にいる倭の臣下達という意味です。
滋賀県立大学教授の田中俊明さんはこの記述をヤマト王権が派遣した使節団と読み解きます。度々開かれた会議に参加するため、安羅に一時的に滞在していたと倭人と考えています。

田中:「それはやはりヤマト政権から派遣された人達、使臣(ししん)たち使者ですねという風に考えていいと思っております。ただその彼らがですね加耶の政治に深く関わるとかですね、加耶諸国の動向に深く関わって何かが出来た、という風にはとても読む事はできません。ですからあくまでもその派遣された使臣達なんですけれどもそれは有効な関係相手国である加耶の南の方の諸国あるいはそちらからの要請を受けて派遣されたものであると。そういう風に限定して考えるべきであると思っております。」

ナレーション:一方、安羅の王と倭人の関係を重視する見方もあります。ホンイク大学教授のキム・テシクさんは、安羅の王が現地在住の倭人を外交交渉にあたらせていたと考えています。

キム:彼らは倭人の官僚でしたが、倭の政権と関係はなく加耶系の倭人臣下だったとみられます。彼らは何かの理由で自発的に来たか、百済や加耶に派遣されて来た人たちで、中には商業活動のために渡って来た人もいたと思われます。安羅王がそのうちの一部の人たちを対外業務に活用したと考えられます。

ナレーション:復興会議から20年後、加耶諸国は新羅によって滅ぼされます。日本書紀に記された任那日本府の記述、その実像を巡って今も日韓双方で議論が続けられています。


〜スタジオへ  キャスター石澤典夫 リポーター比留間亮司(福岡放送局アナウンサー)
         東洋大学教授 森公章  コリョ大学教授 キム・ヒョング

比留間:日本書紀の任那日本府に対する見方なんですけど、VTRでは二つ紹介したんですが、大きく分けると4つあります。それぞれを振り返っていきたいとおもいます。まず一つ目なんですけど(1)ヤマト王権が現地に置いた機関という見方、同じくヤマト王権なんですが(2)一時的に派遣した外交使節団という考え方。そして(3)安羅王のもとで活動した安羅の現地に住んでいた倭人の人々、4つめは百済王のもとで活動していた倭系の官僚、つまり百済王が現地に派遣した外交使節団という考え方です。こうした様々な見方があります。

石澤:さあこの日本書紀に記された任那日本府とはなんだったのか、キムさんこれも大きなテーマだと思うんですがどうお考えになりますでしょう。

キム:任那日本府の問題を除いて古代の韓日関係を語るのは難しいと思います。日本書紀で倭が加耶を経営したとしている記録をよく検討してみると、むしろ百済の記録である可能性が高いと思います。それを立証するのは例えば百済が任那と戦ったとき、ヤマト政権は百済に味方しているという記録です。またヤマト政権が任那へ直接遣いを送り、意見を伝えることは無くすべて百済を通じて行っています。また任那地域で活躍している倭系の人たちは百済王の命令に殆ど従っています。任那日本府という機構には百済の軍令・城主が所属していたとなっています。百済が加耶地域に地方長官を配置していたという事です。やはり当時加耶に影響力を持っていたのは百済だったのではないでしょうか。任那日本府が加耶を経営する機構であったならば、私は百済の機構であったと言いたいのです。

石澤:森さん、百済が派遣したのであって言ってみれば倭王権のコントロール下には無かったんじゃないかという事でもあろうかと思うんですが。

森:私はその現地に居住した倭人という考え方ですね。ただ先ほどの安羅王の為にというかコントロール下にあるというよりはむしろ安羅の政府となかば並立するような、ある程度独自の政治勢力としての安羅に居住した倭人という意味ですね。おそらく任那日本府という表記は日本書紀が完成していく段階で造られた表記だと思います。そして日本書紀のなかの「在安羅諸倭臣(ざいあらしょわしん)」ですね、その行動を見ていきますと安羅ですとか加耶諸国、それらとともに行動して、そして百済と外交交渉をする。また或いは百済が当時ですね加耶地域の争奪を巡って争っていた新羅に対して接近をしていくと。百済とはですね別な政策をとっていくそういう行動をしていくんですね。

石澤:任那日本府などとゆうふうに言いますとね、府が付きますとね役所だとか大きな機関のような印象をうけるんですが、そうではないと。

森:そうですね。府というと役所という意味なんですが、どうも有力な個人、構成メンバーをみますと先ほどのVTRにもありましたけれども的臣(いくはのおみ)というヤマト王権の中央豪族、それから吉備臣(きびのおみ)という岡山県地方の有力な地方豪族、それから河内直(かわちのあたい)というこれは元々はやはり渡来系氏族で加耶の方から渡ってきて河内すなわち今の大阪の地域に居住をした人々。そして移邦斯(えなし)・麻都(まつ)というのは、お父さんは河内直という日本に居る渡来系なんだけどお母さんは百済人か加耶人か、まあそういう人たちで移邦斯・麻都という加耶系の人たちがかなり「在安羅諸倭臣(ざいあらしょわしん)」の外交方針ですとか安羅、乃至は加耶諸国のですね反百済的な行動をコントロールするんですね。そういうなかですから役所というよりかは一つの集団と捉えたほうがよいのではないかと思います。

石澤:今日はいくつかのテーマに絞ってですね見てきたわけですけどね、キムさんはこの4世紀から6世紀の日本と朝鮮半島との交流の実態はどんな風なもんだったとお考えでしょうか。

キム:6世紀始め、継体天皇の代になってから562年に任那が滅びるまでの間が最も頻繁な交流がありました。この50年余りの間任那を通じて韓半島と関係を持ったとされてきました。しかし、日本書紀をよく検討してみると、高句麗や新羅とは往復2回づつしか使臣の交流がありません。任那とは往復8回しかありません。その反面百済とは往復39回もあります。ヤマト政権と韓半島との関係を見たときに、百済との関係が中心だったと言えます。当時韓半島では百済・高句麗・新羅が争っていました。この三国は皆日本に近づいて行きます。三国のなかでは、百済は中国南朝を通じて最も先進的な文物を受け入れていました。そこで百済をパートナーとして選んだと思われます。

石澤:森さんはどうお考えになりますか。

森:かつて日本の古代史では4世紀からですねヤマト王権という物が全国を、関東から九州にかけて全国を強力に支配していたと。そしてその政治力をバックにして朝鮮半島に対して軍事的な援助をおこなったりですね、軍事活動をしていたと。そういう見方で日本の古代国家、或いは朝鮮半島諸国との交流を捉えられていたと思いますね。しかしながら、6世紀の前半位までは日本のですねヤマト王権ももちろん一定の力を持っているんですけれども、九州の豪族ですとか吉備の豪族、北陸の豪族、様々な地方豪族もですねそれぞれ独自の支配権をもっていて、それぞれ独自に朝鮮半島の諸国と通交する外交すると、非常に多元的に交流をしているという段階ですね。そして6世紀の中頃562年に加耶の地域は新羅の領土になるわけですが、そこで朝鮮半島南部はですね新羅と百済と、そして海峡をはさんで倭という非常に厳密な線引きが行われて、それぞれの古代国家の発展というのが広がっていくという時期ですね。それが4世紀から6世紀のまだ完全にはしっかりと古代国家という物がそれぞれの地域をすべて治めているわけではないと、そういう中での多元的な交流が交わされるのがこの時期だと思います。

石澤:まだまだ出てくる史料は一部でしょうから、これからいろんな研究でね新しい状況がわかってくると思いますけども、いずれにしても相互にこうお話を伺っていますと必要としあうこの交流と言いましょうか、一方通行じゃなくてね、相互通交のなかで、やっぱり関係性があったんだってこの時代を見つめていかないと、どうも話しは発展しないなというきがするんですがどうでしょう。

キム:そうです、お互いに必要とするものを相互にやり取りする関係でした。一方的な力だけの関係では無かったという事が出来ると思います。

石澤:そして森さん。あのやっぱりこの時代を考えるときにどうしてもね私たちは21世紀の国家感で見てしまうんですが、さきほどらい話しがありましたように、クニ対クニではない王権が確立する前の段階があったんだというそういうことを前提にしないと話が進まないのかなと。

森:そうですね。そういう古代国家の大きな交流の流れの中で、様々なお互いにですね必要とするようなものを交わしたと、そういう時代だったと思いますね。

石澤:そうした視点での、この時代の検証がこれからさらに求められてくるということですね。どうもお二方ありがとうございました。

ナレーション:ヨンサンガン流域の前方後円墳、現在見つかっている13基のうち発掘調査が行われたのは、まだ半分に過ぎません。去年秋、あらたな調査が行われたヘナムヨンドリ古墳。一般公開され、多くの人々が訪れました。横穴式の石室。入り口は北部九州の古墳でもよく見られる構造です。古墳からは土器やガラスで作られた装飾品も見つかりました。「石室の構造は周辺の古墳と似ている点もありますが、どんな意味があるのか引き続き研究していく必要があると思います(クワンジュ博物館 ウン・ファスさん)」
日本と朝鮮半島。相次ぐ発掘調査によってその交流の歴史に新たな光があてられようとしています。

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